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専門コラム 第52話 謙虚さを取り戻して自分にはない他者の強みに気づき、今以上のお客様、支持者を集める。

 

梁山泊を一大勢力に育てた志士の多彩さ

3月の当コラムで、12世紀の中国を舞台にした北方謙三の小説「水滸伝」に触れました。

さまざまな壮士・好漢が「替天行道」の旗の下に集い宋を追い詰める活躍を紹介し、志の大切さを指摘しましたが、水滸伝のもう一つの特徴が登場人物の多彩さです。

 

拠点となった梁山泊は反乱軍の塞ではありますが、同時に宋という大国の中にできた新生国家の趣を持っていました。

それだけに、登場人物たちはそれぞれ、他の追随を許さない能力でその存在感を示します。

 

槍の名手で騎馬隊を率いる林冲、重い鉄の棒を馬上で振り回して敵をなぎ倒す史進、弓の名手の花栄や揚志、秦明といった武人が華々しい活躍を見せるのは当然として、巨額の活動資金を生む塩の密売ルートを作り守っていく蘆俊義や柴進、軍師であり治政を担う呉用、全土で蜂起をうかがう同志をつないでいった魯智深や武松らのほか、造船や操船に秀で水軍を率いる者、馬の医師や薬師、通信担当や忍者のような陰の軍団の面々など、多士済々としか言いようがありません。

 

そして、晁蓋とともに梁山泊の首領を務めたのが宋江です。

彼は一介の小役人で、武術に優れているわけでも卓抜した技能を有しているわけでもありません。

しかし、その言葉は聞く者の胸に深く染み入り、多くの人を引き付ける不思議な魅力を持っています。

同志の思いをかきたて団結の拠り所となった冊子「替天行道」も、宋江の言葉をまとめたものでした。

 

宋江は自分の至らなさを十分に自覚しています。

だからこそ、他の同志の卓越した技量を素直に評価し、彼らが自分の仕事を全うできるよう、彼らの間に入っていって話を聞き、梁山泊における精神的支柱として存在感を高めていくのです。

 

国と国との戦いとなると、総力戦です。戦力、資力、人材、個々の能力のどれか一つでも欠けると、そこからほころびは広がっていきます。

 

また、リーダーが自分に自信を持ちすぎると何でも自分でやりたがり、全体の力を一つに結集できなくなります。

自分がやった方が早いとばかりに、部下に任せられないというのが、自信がありすぎ才気煥発と言われる人の、陥りやすい罠です。

 

宋江にはそういった失敗の恐れはなく、それゆえに、同志の誰もが自分の力を最大限に発揮できたのです。

 

自分を買いかぶらない者は、本人が信じているよりもはるかに優れている。

これはドイツの文豪、ゲーテの言葉ですが、宋江はまさにそういう人であったのです。

 

自信がありすぎる人の陥りやすい罠

そもそも自信過剰の人というのは、人を見くびりがちです。

自己顕示欲が強く、他人から否定されることを恐れるため自分の弱い部分をさらけ出したくない、相手を自分の思い通りにさせたいといった性向を持っているため、人の能力を引き算で見るばかりで、正しく評価しようとしないのです。

 

自信過剰の人でもポジティブ思考で前向きという長所も併せ持っています。

それだけに、自信を持ちすぎると手に負えなくなります。

「若草物語」で知られるアメリカの作家、ルイーザ・メイ・オルコットはこう言っています。

 

うぬぼれは最高の天才をダメにする。

それだけではありません。

ノーベル文学賞の受賞者で芥川龍之介が傾倒したフランスの代表的作家で批評家のアナトール・フランスにはこんな言葉があります。

 

自分が正しいという確信こそが人間を残酷にする。

その能力が周りの人の足を引っ張り、才能を無残にしおれさせてしまうというのでしょう。

しかも、そのことに痛みを感じないとなれば、だれも付いてこようとはしなくなります。

孤高と言えばきれいすぎます。

むしろ、「裸の王様」と言った方が合っているでしょう。

 

水滸伝の舞台となった宋の時代に王安石という改革派の官僚がいました。

時の皇帝によって宰相に取り立てられ、新法を制定してさまざまな改革に乗り出します。

彼の改革は、大商人や大地主らの利益を削って中小の農民や商人たちを保護することに眼目が置かれていました。

民の苦しみが分かっていたのです。

ところが、既得権を奪われることに猛反発した守旧派の抵抗にあって改革は頓挫します。

 

王安石は決して自信過剰の唯我独尊タイプではありませんでしたが、惜しむらくは、彼を支える十分な体制や後継者をつくれなかったとみられることです。

このため、新法派は王安石の失脚後に分裂し、守旧派の復権を許してしまう結果になりました。

そして、そのことが梁山泊のような反乱の芽を育むことになり、宋の滅亡につながっていったのです。

 

大事を成す人は、芸術家やスポーツマンはともかく、決して一人ではありません。

信頼できるパートナーや「あの人についていったら大丈夫」と思ってくれるような部下がいないと、成功には限界があるということです。

 

謙虚さを欠く慢心は「裸の王様」を生む

人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。

多く知るにつれ、次第に疑いが生じてくるものです。

 

これもゲーテが残した言葉です。

疑いが生じる以前に、自分がいかにものごとを知らないかが分かってくるのではないでしょうか。

そこに謙虚さが生まれます。松下幸之助も謙虚さを常に求め、次の言葉を残しています。

 

謙虚さを失った確信は、これはもう確信とは言えず、慢心になってしまいます。

 

水滸伝に登場する好漢でなくても、人間はだれしもいいところ、強みを持っています。

謙虚になれば、それぞれの強みが見えてきます。

その強みを糾合すれば、自分一人よりはるかに大きなことが成し遂げられるはずです。

 

逆に、裸の王様の周りには、本当のことが言えず王様におもねる家来や市民ばかりが寄ってきます。そして、王様は裸のまま市中パレードを行う羽目になってしまうのです。

 

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉もあります。

だれも「裸の王様」にはなりたくないでしょう。

しかし、人間は弱い者。知らず知らずのうちにそうなってしまうこともよくあります。

 

あなたもそんな一人かもしれません。

謙虚さを取り戻して自分にはない他者の強みに気づき、今以上のお客様、支持者を集めたくはありませんか。