専門コラム 第64話 協力することをいとわないあなたへ
阪神大震災地に見た「おたがいさま」の助け合い
25年前の阪神大震災発生直後、被災地では「おたがいさま」という言葉が、実際の行動とともに広がりました。
誰もが被災して、苦しく制限された生活を強いられる中、できる範囲のやさしさを〝おすそ分け〟する。
そんな雰囲気でした。
当時神戸支局勤務だった知り合いの全国紙の記者は、自らが体験した「おたがいさま」の話を新聞のコラムで紹介していました。
まだ電車が全線再開していないとき、終点だった神戸市の東端の駅に深夜に降り立ち、支局までのあとの10キロは歩くしかないかと思っていたら、ちょうど通りかかった乗用車が脇に止まり、「よかったら乗りませんか」。
礼を言う彼に、ドライバーは「こんなときですから、あいみたがいですよ」と返してくれたそうです。
どこの店も営業どころではなかった発生2日後、コンビニエンスストアに商品配送の車が到着し、食品や生活用品を降ろしていきました。
たちまち長蛇の列ができ、特に食品棚はあっという間に空っぽになりました。
その話を聞いたときは、商魂たくましいと感じましたが、店に行き、必死にレジを打つ店員の姿、「ありがとう、助かったわ」という言葉を残して帰っていくお客さんを見て、思いが変わったといいます。
商売のためではない。
生活を支えるコンビニとして、困っている被災者のためにできることは商品を運んで売ることだ。
そういった純粋な気持ちが伝わってきたとつづりました。
後日、そのコラムを見たコンビニチェーンの社員が、「あのコラムに僕たちも励まされました。
まさにそんな気持ちだったのです」と伝えてくれたと話していました。
世の中は「おかげさん」で成り立っている
頼まれたらいやとは言えない性格の人がいます。
どちらかというと、損な性分でしょう。
頼まれて協力するときは、後で後悔することがままあります。
特に、お金の貸し借りなどはそうです。
しかし、頼まれなくても力を尽くす、力を添える行為で、不愉快になることはありません。
相手の感謝と自らの充足感は、すがすがしさだけを残してくれます。
平易だけれど心に深く染み入る言葉を残した書家で詩人のあいだみつをに、こんな言葉があります。
私の、このヘタな文字、つたない文章も、
見てくれる人のおかげで書かせていただけるんです。
「おかげさんで」でないものは、この世に一つもありません。
みんな「おかげさんで」で成り立っているのです。
「きれいごと」が通用するビジネスでありたい
貧しい人に愛の手を差し伸べた人というと、カトリックの修道女でノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサがいます。
彼女はこんな言葉を残しています。
あなたに出会った人がみな、最高の気分になれるように、親切と慈しみを込めて人に接しなさい。
あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。
マザー・テレサが行動で示した博愛の精神は、崇高でこそあれ、ビジネスの世界には通用しない。
ビジネスはきれいごとだけでは成功しない。
そう考える人も多いでしょう。
というより、ほとんど無意識にそう思い込んでいると言っていいかもしれません。
でも、本当にそうでしょうか。
ビジネスであっても、基本は人間関係ではありませんか。
そうであるなら、真心から出たきれいごとも成り立つはずです。
商売の格言に「損して得取れ」があります。
打算や駆け引きといった意味合いもあるのでしょうが、損をしてでもお客様のためになることに誠心誠意打ち込めば、やがては利となって返ってくると読み取ってもおかしくはないでしょう。
松下幸之助は、より実践的な次の言葉を残しました。
自分が利を得るために、不必要に自分の膝を屈することは、決してすまい。
なぜなら、そうして得られた応援や協力は、また目に見えないしがらみを生み、道を暗くするからである。
「不必要に」には、自分の意に反して、あるいは信念を曲げてという意味合いがあり、自分の利を得ることを目的に妥協したら、そのことが自分の負い目になるとともに、相手につけ込まれるウイークポイントになるということでしょう。
ビジネスの世界には、鵜の目鷹の目で儲けることだけを考えている人が多いのも事実ですから。
しかし、ビジネスの世界が、そんな人たちだけがはびこるものであってほしくありませんし、そうであるとも思えません。
なぜなら、「あいみたがい」「おかげさんで」は、近江商人の心得「三方よし」に、ほぼ完全に一致すると考えるからです。
この言葉は今も、商売の世界で色あせてはいません。
そこにはお客様や世間が内包する善良な人間性への信頼があります。
あなたも人間性への信頼をよりどころに、お客様を一生懸命支えることでお客様の苦しみを減らし、感謝されるような商売をしたくありませんか。